幸せが巡るMURAが出来るまで

2011年3月から同年9月まで 東日本大震災支援活動の時代

このMURAのアイデアが生まれたのは東日本大震災直後の2011年3月15日です。

MURAの村長の一人である上原一德は、震災当時、東京で貸し会議室事業を行っていました。しかし震災の影響で管理しているビルが一部破損して利用出来なくなったり、また余震の影響により予約キャンセルが続発し、売上がパッタリと止まってしまいました。

そこで「どうせ売上もなくて貸し会議室が空いてしまっているのなら、復興支援のためのチャリティーイベントを開催したい方々に全室を無料で貸し出してしまおう!」と考えて、そのための運営ボランティア団体を作りました。それがこのMURAの前身となる「ビジョン東日本ネットワーク」です。

 この団体ではチャリティーイベントを開催して「お金を集め続けるチーム」と、そこで集めた募金を持って「現地で支援活動を行うチーム」の二つのグループを作りました。
 3月19日に最初のチャリティーイベントを開催して、同月30日に南三陸町に入りました。


 南三陸町の要請を請けて歌津中学校避難所を支援先とし、現地の体育館で寝泊まりしながら活動を展開しました。

 当時避難所には約500名の被災者が寝泊まりしていました。
 まず手始めに被災者の方々の三度の食事を作るお手伝いや、募金を活用して食材や薬剤、衣料品や日用雑貨を購入し必要とする方々に提供するといった活動から始めました。
 その後すぐに南三陸町の役場からの依頼で被災してから一度も入浴出来ていない方々のための公衆浴場の建設に着手する事になりました。
 とは言っても私たちは全くの素人集団ですから、みんなで知恵を出し合い試行錯誤するしかありませんでした。

資材が何も無い中でのお風呂作りの工夫の数々

 お風呂を作るためにはまずボイラーが必要です。そこで農業用のビニールハウスを温めるために開発された、石油を使わずにお湯を沸かせるバイオマスボイラーを調達する事に成功しました。
 燃料となるのは、し尿処理後の残滓を固めたペレットです。
 建屋は、中学校の自転車置き場を改装して作りました。
 バスタブは海産物を入れるための大きなトロ箱を流用しました。
 また体の他に服も汚れますので、お風呂の脇には洗濯機を設置してコインランドリーも作りました。
 動力は名古屋の建設会社の社長さんから貸していただいた業務用の発電機と東京から持ち込んだ軽油を活用しました。

 大量の水は自衛隊のみなさんが近くの沢から汲んで給水車で運んでもらいました。


 そんなこんなで、なんとお風呂を作ることを決めてからわずか3日後には試運転を開始出来ました。電気も水も燃料も建材もほとんど無い状態から、多くの方々の協力と情熱だけで奇跡的に、立派な無料公衆浴場とコインラインドリーを作り上げる事に成功しました。

 

 その浴場が出来てからは避難所の空気がガラッと変化し、随分と明るく柔らかい雰囲気になったことを覚えています。(避難所のお風呂運営の様子はこちら

 

支援活動をエンターテイメントにするアイデアの数々

 非常災害時における支援活動では、現場で支援を行うボランティアとそれを受け取る側の現地の方々の間で感情的な行き違いが発生しやすく非常に難しいものがあります。

 そこで私たちは被災者のみなさんに自然な雰囲気で支援を受け取ってもらえるように、その活動の中にエンターテインメント的な要素を意識的に入れるように心がけました。
 日常的なコミュニケーションの場として、お風呂の横に無料の居酒屋をオープンしてそこでライブ演奏を行ったり、校庭を広く使って大人のビンゴ大会と子供のビンゴ大会という二部構成で物資提供を行いました。またバーキュー大会や他の避難所へも出張して体をゆるめて元気にするための体操指導も定期的に行いました。

被災地から飛び出した活動も展開

 さらには被災地の小中学校の校長先生と相談して子供たちの心を少しでも晴れやかにするために、栃木県のキャンプ場でトライアスロン体験合宿を開催しました。これらの費用も全て東京を中心として全国に広がって行ったチャリティーイベント運営チームが集めてくれた募金で賄いました。
 このように私たちの活動は日本中に広がった協力者とのネットワークの中でその波紋を広げていくことが出来たのです。

徐々に薄れていった世間の復興支援活動への関心

 大震災から半年もすると被災地には仮設住宅がかなり整備されてきました。そのため私たちが運営していた公衆浴場もその役目を9月末をもって終える事になりました。
 何万人もの人々が大切な家族や財産を失うという歴史的な災害は、日本や世界の関心を集めて、多くの支援や共感が寄せられて来ましたが、それもかなり薄れて来ていると感じていました。
 私たちのボランティア団体として貢献できる事もかなりすくなくなっていたので、公衆浴場の撤収と共に現地の支援事務所も閉鎖する事になりました。
 しかし現地の人々はようやく仮設住宅という最低限の住環境の中でこれから仕事を見つけて生活をマイナスの状態から作り直して行かなければならない厳しい状況でした。

 福島の原発問題も全く収束することは無いにも関わらず震災後の復興は一段落したかのような雰囲気が日本中に漂い始めていました。

 私たちは半年間の支援活動の中で、人と人が心を通わせて協力することの難しさをひしひしと実感していました。